なにげなく普段使っている身近な言葉が仏教用語から由来しているのをご存じでしょうか?
法要などでお経を聞いていても意味が分からない言葉が多いですが、中には聞き覚えがある言葉などがたまにありますよね。
そんな聞き覚えがある言葉は仏教から来ていると言われています。
仏教に興味がなくても、仏教用語からきている身近な言葉を知りたいと思う方は、深く追求し解説していきますのでぜひ最後までご覧ください。
本記事のポイント
- 仏教用語の種類
- 四字熟語とことわざ
- 仏教について
身近な言葉が仏教用語?

普段なにげなく身近に使われている言葉が仏教用語から来ているのは何か、下記のようにいくつか選んでみました。
言葉 | 読み方 | 言葉 | 読み方 |
---|---|---|---|
挨拶 | あいさつ | 御馳走 | ごちそう |
安心 | あんじん | 出世 | しゅっせ |
覚悟 | かくご | 精進 | しょうじん |
会釈 | えしゃく | 世間 | せけん |
愚痴 | ぐち | 冗談 | じょうだん |
玄関 | げんかん | 旦那 | だんな |
上記の身近に使われている仏教用語を一語づつ解説していきます。
挨拶(あいさつ)
挨拶の「挨」は押しはかるという意味を表し「拶」迫るという意味になります。
宋代(960年 – 1279年)中国王朝の頃から口語表現で、群衆が他の人を押しのけて進むという意味で使われていました。
意味だけを見るとが逆に危険なイメージに思えますが「禅宗」では、師匠が弟子に声をかけるなどして、返答で修行の度合いを決めるということが行われていたのが「挨拶」のはじまりです。
「禅宗」は座禅で修行を行う宗派で、日本では臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の総称となります。
師匠と弟子の問答のことを挨拶と呼んでいたのです。
安心(あんじん)
「安心」の意味は心を落ち着かせて心配ないことを表します。
しかし、仏教では「あんじん」と読みならわし、信仰と実践により心の平安を得て物事に動じない心境のことであり、あるいは不動の境地を意味することです。
覚悟(かくご)
「覚悟」とは通常あらかじめ危険なことを予測して、心構えをすることです。
仏教では「迷いを去り、真実の道理をさとる」と言われており、ようするに真理をさとる、真理にめざめることを意味します。
涅槃経には「仏とは、覚と名づく。既に自ら覚悟し、また能く他を覚す」と説いています。
覚悟を得た人を仏と尊称し教主と仰ぎ、教えに随うのが仏教徒です。
「覚悟」とはさとりを基本とした仏教用語でした。
会釈(えしゃく)
「会釈」は一般的には人と人が軽い挨拶のことを示しています。
仏教での「会釈」は「和会通釈(わえつうしゃく)」という四字熟語で、経典に書かれている内容をわかりやすく解釈していました。
「和会通釈」という言葉を略して「会釈」になったと言われています。
また「会釈」のほかに「会通(えづう)」と略すこともあるということです。
愚痴(ぐち)
「愚痴」とは一般的には言っても仕方ないことを言って嘆くことです。
仏教でいう「愚痴」は煩悩が百八つある中で「貪欲・瞋恚・愚痴」が特に強力なもので「三毒の煩悩」と言われています。
お釈迦さまは「人間が苦悩する原因は、心の中に宿る煩悩にある」と教えを受けました。
三毒の煩悩は「貪欲は(むさぼり欲しがる)」・「瞋恚は(怒り腹立つこころ)」そして三つ目に「愚痴」ですが、三つは病として扱われているのです。
大乗経典には、衆生の三種の病とその治癒法が説かれています。
「愚痴」とは、目さきのものにとらわれて、真理を解する能力のない愚かな心を表現することです。
玄関(げんかん)
「玄関」はもともと寺院の入口のことを呼んでいました。
寺院の出入り口は「悟りの道への関門」「玄妙(げんみょう)な道に入る関門」という関所のようなものです。
室町時代以降には、書院造が建てられるようになり、訪問客のために式台を設けた格式のある出入り口が、書院・寺院・方丈に作られました。
寺院などの出入り口は「奥深い仏の道への入口」と言う意味で「玄関」という文字を掲げたことから山門や寺の出入り口を「玄関」と呼ぶようになったのです。
普通の家の入り口を「玄関」と呼ぶようになったのは、式台のある一般の家屋にも取り入れられるようになった江戸時代以降のことです。
御馳走(ごちそう)
大変な思いをして食事の支度をしてくれた人への感謝の気持ちで「ご馳走様」といいますが「馳走」という言葉が仏教用語になります。
「馳走」は「他人の為に奔走(ほんそう)し功徳をほどこして救うこと」の意味です。
最近の言葉では「もてなす」ことと同じ表現をもっています。
他人へのほどこしが食べ物が多かったと言うことから、御馳走=食べ物と認識されるようになりました。
注目すべき点は「他人のために」ということは「物」ではなく「行い」を指していることなので、本物の御馳走は一人では得られないのです。
「馳走」に「御」がついて「御馳走」でさらに「様」がつき食後の挨拶で「ご馳走様」になっていきました。
つまり「御馳走」は他人のために走ってまでも食事の準備をし、もてなすことです。
出世(しゅっせ)
通常は会社などで、昇進したときに肩書がつくことを出世したという意味で使います。
しかし仏教では逆に世間から離れて仏門に入ることを意味しているのです。
「出世」は「俗世間の煩悩を解脱(げだつ)し悟りを得ること」の意味で出世間(しゅっせけん)が略された言葉と言われています。
精進(しょうじん)
「これからも精進してまいります」などビジネスシーンなどでは、よく耳にする言葉ではないでしょうか。
「精進」の意味は一つのことに集中して一生懸命努力することをいいます。
仏道では「ひたしすら仏道修行に励むこと」「一定の期間行いをつつしみ身を清めること」「肉食を断り菜食をすること」を実践することです。
「精進」はひたむきな努力を表した言葉になります。
世間(せけん)
「世間」という言葉はインド発祥の宗教における用語で、サンスクリット語のloka(場所、領域)の漢訳語です。
意味は世の絶えざる転変や破壊のことで、遷流(移り変わっていくこと)を指します。
仏教ではものごとが生成・変化・消滅していく場所、衆生の世界のことです。
上記のようなことから「世間」という言葉が使われるようになりました。
冗談(じょうだん)
「冗談はよしてください」「冗談が通じない人だね」とか一般的にはふざけた言葉、滑稽()な言葉、ユーモアのある言葉の意味として使われています。
仏教では仏道修行中、関係のない無用な対話のことを「冗談」と呼んでいます。
「冗」は「むだ、不要、あまっている」の意味なので、無駄話ということから仏道修行以外でも、日常語に使われるようになりました。
旦那(だんな)
「旦那」は仏教用語から来てるとは、知らない方が多いのではないでしょうか。
「旦那」はサンスクリット語の「ダーナ」の音写です。
ダーナの意味は与える・贈る・ほどこし・布施などと訳され、「檀那」とも書きます。
「檀那」と言う字はもともとは「布施」という意味で日本では「布施者・施主」を檀那と呼ぶようになってきました。
寺院では檀那の家を指して檀家と呼ぶことが一般的です。
「旦那」の語が広まったのは、パトロン面倒をみてくれる人と言った意味から、奉公人が主人、商人が客に妻が夫を呼ぶときの敬称として使われるようになりました。
四字熟語とことわざ

四字熟語
四字熟語を会話に取り入れることは余りないと思いますが、下記の3つはよく耳にしますし、使ったことがある方もいるのではないでしょうか。
他力本願(たりきほんがん)
「他力本願」は字のごとく、他人の力をあてにして、他人まかせと言う意味でよく使われています。
仏教では浄土真宗の親鸞(しんらん)が明らかに示しており、「他力といふは如来の本願力(ほんがんりき)なり」という言葉を残していました。
自らの修行による功徳によって悟りを得るのではなく、阿弥陀仏の本願によって助けられることを意味する言葉です。
つまり「他力本願」は阿弥陀仏に助けられて成仏するという意味で使われていました。
四苦八苦(しくはっく)
「四苦八苦」は切羽つまった様子の表現をする言葉です。
「四苦」とは人間が生きる上で避けて通れない『「苦」生苦・老苦・病苦・死苦』の種類を表しています。
人は生まれたときから与えられた環境で育ち、必ず歳を取り老いていき、寿命が来れば死に至る様子の四つの苦しみが根本的であると説かれています。
「八苦」は四苦に四つの苦「愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)」を追加されたものです。
意味は下記のようになります。
□愛別離苦は、大切なひとや大好きな人であってもいつかは離れなければいけない苦しみ。
□怨憎会苦は、大嫌いなひとや顔も見たくない人と出会ってしまう苦しみ。
□求不得苦は、求めるものごとがてに入らない苦しみ。
□五蘊盛苦は、自分の心や、自分の身体すら思い通りにならない苦しみ。
上記の四つが組み合わせられたのが「四苦八苦」の熟語になりました。
言語道断(ごんごどうだん)
「言語道断」は言葉に言い表せないほどひどいことや、とんでもないこと、持っての他と怒りがこめられた否定する際に使われています。
仏教では『「言語」は言葉に出して表現することで・「道」は方法のこと・「道断」は方法を断たれる』という意味です。
仏法の奥深い真理は説明しきれないので、言葉から離れるという表現の仕方をしています。
昔は言いようがないほど立派であるという意味で使われていた「言語道断」ですが、現代では言葉にできないほど酷いことの表現で使われていることが多いです。
ことわざ
「ことわざ」とは古くから言い伝えられきた、教訓やものの例えを短い文で示したものです。
中には四字熟語と同じようなものもありますが、ことわざは短い文に込められています。
よく耳にする仏教から来ていることわざをご紹介します。
会うは別れの始め
「会うは別れの始め」は人と人が出会うことが、すでに別れのはじまりであることを表しています。
人はこの世に産まれ出て来たときから、逃れられない死という別れに向かって生きていき、出会いがあれば、必ず別れがあるということわざです。
別れがあるこそ出会いは大切にしなければいけないという意味も込められています。
馬の耳に念仏
「馬の耳に念仏」とは他人の意見に耳を貸さず、ありがたみを理解しない様子のことを意味します。
馬に念仏を聞かせても無駄であるということから生まれたことわざです。
一期一会
「一期一会」は出会いは一度限りの大切なものなので大事にしなさいという意味で使われています。
仏教用語の「一期(いちご)」と「一会(いちえ)」が合わさってできたことわざです。
「一期」は人が生まれて死ぬまでの一生のことであり「一会」は生涯一度かぎりのことを意味しています。
すべての出会いは一度限りなので大事にしなさいという教訓です。
仏教とは

仏教とは2500年ほど前に仏陀(ブッダ)を開祖として説かれた教えです。
仏陀は「悟ったもの、真理を目覚めた人」という意味をもち、幼い頃の名前ゴータマ・シッダールや一族の名をもとに釈迦・釈尊などさまざまな名前で呼ばれていました。
仏教は仏陀の教えに従い僧侶や在家信者の立場で、修行や実践をして悟りや涅槃の解説を完成させることが目標としています。
さまざまな宗派がありますが、どの宗派も仏陀から来ており一般の人は、僧侶から悟りの教えを受けることで仏教の道えと導かれていくのです。
まとめ
身近に使っている言葉が仏教用語だと知っていたのはありましたか?
まだまだ他にもあると思いますが、今回は下記の語を中心に解説させていただきました。
ポイントのまとめです。
仏教用語の種類 挨拶・安心・覚悟・会釈・愚痴・玄関・御馳走・出世・精進・世間・冗談・旦那
四字熟語とことわざ
四字熟語 他力本願・四苦八苦・言語道断
ことわざ 会うは別れの始め・馬の耳に念仏・一期一会
仏教について
仏教とは2500年ほど前に仏陀が開祖として説かれた教えのこと
「身近な言葉が仏教用語」で解説してきました。
参考になれば幸いです。